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ミスターコンサドーレの系譜

まえがき

この記事は、北海道コンサドーレ札幌 Advent Calendar 2021向けに書き下ろしたものです。書き下ろしとか書くとめっちゃありがたそうですけど、実に10ヶ月ぶりの更新。皆様お元気でお過ごしでしょうか。サッカー百鬼夜行でございます。腐海の底から蘇ってまいりました。

はじめに

さて、北海道で「ミスター」といえば、我らが鈴井貴之さんのニックネームであることは、オリックスの若月健矢捕手のニックネームが「プリンセスフォーム」であることくらい周知の事実かと思いますが、今回は「ミスターコンサドーレ」について書いてみたいと思います。コンサドーレが誕生して今年で25年。歴代の「ミスターコンサドーレ」を振り返ってみましょうという企画です。

「ミスター」というのは、大元をたどれば「ミスタージャイアンツ」あるいは「ミスタープロ野球」と呼ばれた長嶋茂雄さんがおそらく元祖なのではないかと思いますが、その定義はあまりはっきりはしません。一般的には「チーム(あるいはその競技・業界など)を代表する『顔』的な存在」であることが条件かと思いますが、もうひとつ「固有名詞を出さなくても、その人が真っ先に出てくる」みたいなのも、重要な指標かも知れません。「ミスター競輪」といえば、世界選手権10連覇という偉業を達成した中野浩一さんを思い浮かべる人が多いでしょうし、「ミスターお金配り」とか、「捕まってないだけの詐欺師」とかも、すぐ出てきますもんね。名前は出しませんけど。

とはいえ、それでも「『ミスター笑点』は誰か」と聞かれたら、歌丸師匠か圓楽師匠かで意見が分かれるでしょうし、第三勢力の小遊三師匠派まで乱入してしまうと山田くんも大変だと思いますので、ここではあくまで「オレの中でのミスターコンサドーレ」という基準ということで、ご勘弁願いたいと思います。

吉原宏太(1996年~1999年)

チーム黎明期、この時期のミスターといえば、何と言っても吉原宏太選手でしょう。初芝橋本高校から加入したルーキーイヤーからレギュラーとして活躍。川崎市を本拠地としていた東芝サッカー部をまるごと誘致したクラブにとっては、同期入団の吉成大(帝京高校卒。のちにペルー代表となる)とともに「初の生え抜き選手」であり、甘いマスクも相まってメディアへの露出も多く、1999年には日本代表にも選出されたことで、全国的な知名度も上がりました。

札幌でプレイしたのは1999年までの4シーズンだけなので、この後に続くメンバーに比べると、「ミスター」と呼ぶには若干在籍期間が短い気もしますが、サッカーにはまるで興味のなかったうちのじいちゃん(15年前に没。元カブトデコム役員)が、吉原宏太の名前だけは知っていたくらいなので、「ミスター」として扱っていいくらいの「顔」を持つ選手ではあったと思います。

2000年にガンバ大阪に移籍してからは、プレイヤーとして札幌に戻ってくることはありませんでしたが、サポーターの間では「いつか帰ってきて欲しい」という願いも強く、某匿名掲示板では、毎年シーズンオフになると、鹿追のフクハラや西岡のポスフールなど、道内の各ショッピングスポットでの目撃証言(※幻)が報告されていました。

その後大宮アルディージャ、水戸ホーリーホックを経て2012年に現役を引退、解説者やサッカー指導者として北海道に帰ってきています。

ちなみに、彼の移籍については、生え抜きスターがチームからいなくなることへの影響の大きさなどから、完全移籍ではなく「レンタル移籍」となったのではないかと推測されますが、結局吉原選手は2001年にそのままガンバに完全移籍。一方で、彼と交換レンタル(レンタル料の相殺)の形で札幌にやってきた播戸竜二選手(現俳優兼解説者)は、2001年もレンタルの期間を延長しただけ。結局そのシーズンを以て所属元のガンバに戻り、札幌には選手もお金も残らなかったことで、これ以降よく訓練されたサポーターの間では、「中途半端にレンタルなどするな、売れるうちに売れ!」という鉄の意識が芽生えるようになったのです。

曽田雄志(2001年~2009年)

吉原宏太移籍後、「ミスター」候補として期待されていた幾人もの若手選手が、だいたい他チームへ移籍していく中、引退するまで一貫してコンサドーレでプレイし続けたワンクラブマン。チームの顔…というには若干地味さは否めないものの、地元札幌出身で、全国でも有数の(頭のイカれた生徒が通う)進学校である札幌南高校卒という異色の経歴の持ち主で、頭脳だけでなく身体能力もJリーグでトップクラス。空中戦ではほぼ負けることがない強靱な肉体の持ち主で、「ソダン」の愛称で親しまれました。

加入当初はFW登録ながら、翌年以降はDFへコンバート。とはいえ、試合に負けそうなときに前線に上がってターゲットとなる「ソダン大作戦」もたびたび見られ(負けそうな試合が多かったので)、なぜか失点に結びつかないやらかし、いわゆる「ソダンファンタジー」とともに、札幌の風物詩とも言われました。また、現役当時に執筆していたコラム(「曽田雄志の文化向上委員会」)やオフィシャルブログ(「不易流行」)などでの、含蓄のある独特の言い回しには熱心な信徒も多く、全盛期には「ビバ! マエストロ!」と叫びながら延々とその場ジャンプを繰り返す謎の集団「ソダアスター教団」もあったとかなかったとか。

2002年の最終節では、途中出場ハットトリックの大活躍。5-4という史上稀に見るバカ試合に終止符を打ったVゴールは、Jリーグ最後のVゴールとなっており、また2008年の第4節川崎戦では、交代枠を使い切ったあとにGK高木貴弘(現札幌アカデミーGKコーチ)が退場。臨時GKを務めたことで「公式戦での全ポジション制覇」を記録するなど、地味に派手な記録の保持者でもあります。

2007年には、現在札幌でコーチを務めるブルーノ・クアドロスとのコンビで、リーグ最少失点の堅守を支え、J2優勝とJ1昇格に貢献します。しかし翌年以降は腰を悪くして戦列を離れることが続き、2009年シーズンをもって現役を引退。引退試合では、自ら獲得したPKを止められたと思ったら、まさかのやり直しで無事にゴールするという「らしい」最後でサッカー人生を締めくくりました。

引退後はプロサッカー選手のセカンドキャリア支援などを行うNPO法人を設立する一方で、コンサドーレの試合の解説も担当。精力的に活動を行う一方で、川で溺れた人を助けて表彰されたりと、現役時代同様に地味に派手な活躍を見せています。

砂川誠(2003年~2015年)

ソダンと同時期に並び立っていたミスターコンサドーレ。曽田さんが飛車ならスナさんは角。ちなみに和波智広は成らない香車。サッカーの名門市立船橋高校から柏レイソルでプロのキャリアをスタートし、2003年にレンタルで移籍してきてから、12シーズン半もの長きにわたって札幌でプレイし続けました。

当時の史上最速降格記録で再びJ2でのスタートとなったこの年、1年でJ1復帰するために大物監督や大物助っ人を獲得した中で、これといってスナさんの移籍が話題になったわけではないですが、開幕戦でチームのシーズン初ゴールを挙げるなど年間を通して活躍。ちなみにこの大物監督と大物助っ人に打った大バクチが大失敗したことで、クラブは押してはいけなかった禁断の「リセットボタン」をポチることに。大胆に世代交代…といえば聞こえはいいけど実際のところは単なる年俸圧縮が目的だった若手への切り替えの中で、レンタル延長という形で札幌に残留します。

言葉通りの「引率係」として、見た目にも気の毒になるくらいの「スナさんお願いサッカー」の中で奮闘するシーズンでしたが、ひとりの力で何とかできるわけもなく、案の定チームはJ2での最下位に低迷。柏へ帰る選択肢だってなかったわけではないでしょうに、翌年完全移籍を決断する漢気を見せ、サポーターの心をわしづかみにしました。

2015年途中にFC岐阜へレンタル移籍するまでの間、2度の昇格に貢献。2010年にはいったんクラブとの契約満了が発表されるものの、チームの核を担ってもらう予定だった主力選手が相次いで移籍してしまい、にっちもさっちもいかなくなったため、再契約のオファーを快諾。翌2011年は全試合に出場してチームのJ1昇格に貢献しています。この年は余裕の優勝を決めていたFC東京を最終戦で2-1で下してJ1への切符を掴みましたが、その晩、地元テレビ局にベロンベロンの状態で出演した姿は、「ほぼ放送事故」として今でもサポーターの語り草になっています。

2012年以降は怪我に悩まされることが多かったものの、2013年には公式戦通算500試合出場という偉業を達成します。2015年には札幌で試合に出ることなく、シーズン途中にFC岐阜へ期限付き移籍。シーズン終了後そのまま引退となりましたが、札幌での出場試合数は実に446試合。苦しいことのほうが多かった時代において、常にチームを引っ張り続けた背番号8は、「ミスター」と呼ぶにふさわしい選手だったと思います。

引退後も指導者として札幌に残り、現在は札幌U-15のコーチ(監督でした)として後進の指導に当たる一方、たまーにコンサドーレの試合の解説も担当しています。

宮澤裕樹(2008年~現役)

そして、現在のミスターコンサドーレは誰か、という話になれば、この宮澤選手をおいてほかにないでしょう。2008年に地元の室蘭大谷高校(現・北海道大谷室蘭高校)からコンサドーレに加入。当時は「北の爆撃機」と呼ばれたストライカーで、鹿島アントラーズなどJ1の強豪チームからのオファーを「北海道から出るのが怖いから」という理由で蹴ったと言われており、いわば「棚ぼた獲得」とも言えますが、そもそもプロサッカー選手としてやっていく自信がなくて、高校の監督に内緒でこっそり就職しようとしていたという逸話も残っているので、信憑性は高そうです。

以後現在に至るまでコンサドーレのユニフォームをまとい続け、気づけば今年で14シーズン。札幌での試合出場も、スナさんを追い越して460試合とし、当然ながら歴代の札幌の選手の中で在籍年数も出場試合数もナンバーワン。まさに生けるレジェンドです。

曽田さん同様に、加入時はFW登録でしたが、徐々にポジションを下げて、今では最終ラインの真ん中に構えています。石崎信弘監督をして「アイツは天才じゃろ」と言わしめた通り、どのポジションであっても当たり前のようにこなすサッカーセンスが最大の武器。とはいえ、そんな宮澤さんでも、サイドだけはロマンの域を出なかったことから、基本的にはセンターの選手な模様。

監督が変わっても常にレギュラーをキープし続ける一方で、「脚が速い」とか「空中戦に強い」とか「ドリブルがヤバい」とか「Twitterでサポーターを煽るのがうまい」とか、素人目にわかりやすい突出した特徴はさほどないので、「華」という意味では他の選手に譲ることが多いですが、「地元出身で生え抜きでクラブ一筋で10番でキャプテンで笑うと糸目」という選手を「ミスターコンサドーレ」と呼ぶことに、異論を挟む人は極めて少ないかと思います。

とはいえ、異次元の弱さで下り最速伝説を作った2012年により、身ぐるみ剥がされた2013年あたりは、その宮澤を残せるだけのお金を捻出できるかどうかも怪しかったらしく、もしそのお金がなかったらどうなっていたかわかりませんね。願わくば、スパイクを脱ぐその日まで、赤黒のユニフォームでいてくれたら、と思います。

おわりに

こうしてみると25年の歴史の中で4人のミスター、というのは多いのか少ないのかはわかりませんが、割と納得いただける人選なのではないかと思います。チームの「顔」という意味では、河合竜二CRCもこの中に入る気もするんですが、河合さんの場合、ミスターというよりきっと将来ミニスターと呼ばれそうですので、今回はあえて外しています。